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表裏の関係にある「女性差別」と「女性活躍」。実のある「活躍」時代へ向け今できること(後編)

「女にこうあってほしい」との男の願望が「女らしさ」の社会的観念をつくっている

 【前編】では、「女性差別」が今も機能していること、また、人びとが差別を無意識に前提していることを確認した。
 けれど、そういったことは置き去りにされがちで、「妻は家庭に」から「妻も仕事へ」という考えの変更はさまざまな圧によって無理やり、しかも男性本位の「フェアでない」価値にもとづいて進められている。

 本稿は、差別の思想的「根深さ」に焦点をあてる。
 「女性はこうあるべき」という規範は、かつてからトレンドのように変化させられてきた。「妻は家庭に」「妻も仕事へ」といった考えは基本、「こうありたい」という女性の願いがかたちになったものではない。「女性にこうあってほしい」という男性の願望が大きな要素としてトレンドに反映されている。女性らしさを方向づけるハンドルを強くにぎっているのは男性である。

 社会学者・上野千鶴子さんは東京大学入学式の祝辞で語った。
 「頑張って東大に進学した男女学生を待っているのは、どんな環境でしょうか。他大学との合コンで東大の男子学生はモテます。しかし東大の女子学生からはこんな話を聞きました。『キミ、どこの大学?』と訊かれたら、『東京、の、大学...』と答えるのだ、と」(※1)
 なぜか? 上野さんは、男性から「かわいい」を期待されることを女性が知っているから、とのべる。「東京大学です」と女性が言えば、「自分を優位にポジショニングできないかも」と感じた男性が「かわいげのない子」と思うかもしれない。東大女子のなかにそれを不安がる人がいるのだ。それで彼女らは、男性にどう判断されるかを気にしつつ、距離をはかりながら下方へポジショニングしていく。そんな仕方で女性は、男性主導が生んだトレンドに「合わせて」生きている。そういう部分は、ある。

 作家ボーヴォワールは「ひとは女に生まれない、女になる」(※2)という言葉をのこした。「女」をかたちづくるもののメインは、文化などに決められた後天的な「女らしさ」であって、生体的な「性」がメインではない。人は、生まれて幾年もかけて「女らしさ」を教わり、そして後づけで「女」になる、と。そのさまは、トレンドのつくり手である男性に「女にさせられている」とも言い換えられる。

ただコミュニケーションをするだけで男性に支配される?

ただコミュニケーションをするだけで男性に支配される?

 男性  「キミ、どこの大学?」
 東大女子「東京、の、大学...」
 この話で注目したいのは、やりとりのなかで、男性による女性支配が生まれている点である。「東京、の、大学...」と語った瞬間、この女子は「女らしさ」を男性に「査定してもらう」立場、ひいては「被支配者(=支配される者)」とされてしまう。
 大げさな話と思われるだろうか。

 別の例をだそう。
 「命令形」の言語表現をつかうことに女性がハードルを(なかば無意識的に)感じていることは、つとに指摘されてきた。災害の緊急時に、周囲に避難を呼びかける場面を想像してほしい。そのとき男性は「逃げろ! 逃げろ!」等と命令形を採用する。だが、女性は基本「逃げてー! 逃げてー!」と依頼・提案のかたちをとる(※3)。

 ジャーナリスト・伊藤詩織さんの『Black Box』に、この話法を連想させる話がでてくる。同書の性的暴行の描写を書きだしてみよう。
 「山口氏は、『痛いの?』などと言いながら、無理やり膝をこじ開けようとした。膝の関節がひどく痛んだ。そのまま何分揉み合ったのだろう、体を硬くして精一杯抵抗し続けた。ようやく山口氏が動きを止めた。私は息も絶え絶えに後ろ向きに横たわったまま、罵倒の言葉を探していた。それまで『やめて下さい』と繰り返していたが、それではあまりに弱すぎた。私はとっさに英語で言った。『What a fuck are you doing!』」(※4)
 「やめて!」とはいえても、「やめろ!」とは反射的に言えない――。男性を強く拒否する表現が日本語から見いだせず、伊藤さんは英語で叫んだ。
 なかなか実感されないことだが、女性は、命令形をはじめ支配力のある言葉をつかいにくく「させられている」。

 哲学者イリガライは「つねに男性形で」西欧の言葉が運用されてきたと説得的にのべた(※5)。難しい言いかただが、これは、西欧の言語が「男性による支配が生まれやすいようにできている」という話につながっていく。日本語も同じである。

 文化や制度からしゃべり方まで、さまざまなフェーズで女性は今も「弱者にさせられている」。また、これまでの女性の活躍を男性が適正に評価せず、かつ労働力として女性が存分に活躍できない環境を男性主導でつくってきたという前提があって、はじめて昨今の「女性活躍」という考えが出てくるということは、見逃してはいけない事実である。
 これでおわかりいただけたと思う。女性活躍と女性差別は、コインの裏表の関係にあるのだ。

「男が女に寛容にならないと」との考えが「上から目線」であることに気づかない男たち

「男が女に寛容にならないと」との考えが「上から目線」であることに気づかない男たち

 では「女性活躍」がはらむ「女性差別に根ざした欺瞞性」を、わたしたちはどうとらえていけばいいのか。
 あらかじめ断っておくけれど、これからわたしがのべることは具体「策」ではない。男性の「構え」にかんする話である。わたしは、女性活躍にかかわる法や制度がこれまで上滑りしてきた原因の一つに、この「構え」の欠陥をみている。それを示したい。
 思索の手がかりになるのは、「寛容」という言葉、「受け容れて認める」を意味する語だ。
 「男が女に寛容にならなければ」といった主張を聞くことが、たまにある(みなさんにも経験があるかもしれない)。わたしはその主張に長らく同調してきた。違和をいだかなかった。しかし、この主張がはなはだ「上から目線」だということを、わたしは友だちから教わった。

 じつは「寛容」には難題がひそんでいる。これは哲学等で議論されてきたことで、試みにいくつか課題を例示してみよう。
 ① 相手の非礼、非理、不徳などをどこまでゆるし、受け容れるかの判断が難しい
 ② 悪いことに対し寛容を徹底すれば、悪を助長させてしまう危険がある
 ③ モノ・人への愛着や執着が強ければ強いほど、人はそれらに寛容になりにくい
 ④ 人と人のあいだで寛容を機能させられるかどうかは基本、より強い者の手にかかっている

 表現が難しかったかもしれない。
 注目したいのが、④だ。
 当然のことだが、強者と弱者の力関係には差があって、強者が強い影響力をもつ。暴力や権力によるものも、そうだ。「寛容を活かすか殺すか」を決める権限の多くも、強者にゆだねられている。たとえ弱者が寛容になっても、強者が不寛容であれば、両者のあいだの寛容は良的に働かない。問題解決が進むかどうかは基本、強者が決める。沖縄米軍基地問題の解決の成否が、弱者=沖縄にというよりも、主に強者=本土が寛容になれるか否かにかかっていて、なかなか進展しない状況がつづいている原因は、寛容がはらむこの性質にもよる。哲学者デリダがのべた「寛容はつねに『強者の道理』の側に」(※6)との至言には、そんな意味がふくまれている。

 沖縄米軍基地問題は、強者である本土の人が「沖縄に負担を押しつけている事実」を知り、直視しない限り、本質的な意味で解決しない。同じように、「差別の温床になりうるモノ・コトを男性が知り、男性が寛容に」ならない限り女性差別は解消しない。仮に女性だけが寛容になったとしたら、男性はそれに甘え、増長し、悲しい歴史をあらたに生むだろう。

 寛容がもつ悲劇性は、ここにある。
 女性差別の解決法として「寛容」を採用すれば、デリダが言うように、強者である男性の道理にしたがって寛容は働き始める。男女のあいだに格差があればあるほど、寛容は強く働く。そして、男性の寛容は「男が聞き上手に」「女性にたくさんしゃべらせて」といったかたちであらわれる。このとき、女性がどう応じるかはあまり関係がなく、男性は「男が折れてあげて」「男が大人になってあげて」はじめて差別が解消に向かう(だろう)、といったマインドを手にする。
 この「あげて」的な色合いに、男性の「上から目線」を感じる女性は、多いと思う。つまり寛容には、「男が上、女が下」という考えを残してしまう側面があるのだ。

 「男の大人の対応によって」女性差別がおさまった、といった事態を想定してみてほしい(まず、ないだろうが)。これで万事解決! と、その結果をとらえるほどバカな話がないことは、ご理解いただけると思う。なぜなら、そこに依然として「差別解消を主導できなかった女たち」という考えが存在しつづけるからだ。
 寛容は、差別解消の万能原理にはならない。

差別克服の難しさのまえで焦燥し、「知らぬ」「至らぬ」自分に気づくことの大切さ

 こういった話からもわかる通り、差別の乗り越えは、ほんとうに難しい。
 じつはわたしは、この「難しさ」を真の意味で「わかる」ことが、差別乗り越えの動力・エンジンになると考えている。

 たとえば「学びはじめ」のとき、人は「わかったことが増える」という感覚に喜びを見いだし、より学ぼうとする。しかし、ある次元以上に学びが進むと、いつしか人は「わかったことよりも、わからないことのほうが圧倒的に多い」という気づきをエネルギーにして学びにつとめるようになる。「わからない」という感触を通じて、世界の広さが感覚されるようになり、世界への関心も高まるからだ。

 物理学者ニュートンはこんな言葉を残している。
 「私は、海辺で遊んでいる少年のようである。ふつうよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに」(※7)
 万有引力の法則を見いだした博覧強記のニュートンは、みずからを「真理探究の海」に飛びこんですらいないと評価した。「わたしは知らない」という強い自覚が、知的偉業に結びついた。
 「わからないことがわかる」「何がわからないかがわかる」と心底感じた人は、「動く」のである。しかも「知らない」という気づきは、「自分の至らなさへの自覚」をベースにしているので、謙虚に学ぶ姿勢をも生む。かりに差別の「わかりにくさ」、乗り越えの「難しさ」を深く深く知ったとしよう。そのとき、人は女性差別と謙虚に向き合い、多くの男性は女性から学ぶようになるはずだ。
 この「知らないを知る」ことこそが、女性活躍や女性差別と向き合う「構え」のベースになる。男女の別をこえた「活躍」時代へのスタートラインにもなる。

 これが、前編後編で訴えたかった結論である。
 あっけなかっただろうか。
 この信念のもとに、わたしは本稿で差別問題の「難しさ」をあらわすことに集中した。これが、「知らなさ」へのまなざしをあなたに芽生えさせ、次の歩みにつながれば喜びである。そこで生まれる謙虚さは、落とし穴をもつ「寛容」すらも、良い方向に働かせるだろう。

 哲学者・藤野寛さんは「あるルールを変える時には、権力者の側、多数者の側が寛容になる必要がある」(※8)とのべた。確かな「構え」をとれるよう努力しながら、立法機関などで多数派を占める男性がイニシアチブをとって、女性とともに制度やルールを変えられれば、それは「生産性が高く」「効率的な」女性活躍の推進につながるとわたしは思う。そうして生まれた新システムは、上滑りのしにくい耐性をもって、長く、わたしたちの助けとして活きるはずだ。

 じつは、事前に幾人かの女性に本稿を読んでもらった。そこでわたしは、差別などと向き合う「ふり」をしていた自身を知り、恥じた。そんなわたしがまず「できること」といえば、知識として知ったことや悩んだことをシェアすることである。
 わたしなりのささやかな一歩――。
 おつきあいいただきありがとうございました。


[脚注]
(※1)「平成31年度東京大学学部入学式 祝辞」、「東京大学ホームページ」掲載、趣意
   https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html
(※2)ボーヴォワール『第二の性』井上たか子ほか監訳、新潮社、1997年
(※3)渋谷倫子「日本における『近代的』セクシュアリティの形成」、『ジェンダー史学』第2号所収
(※4)伊藤詩織『Black Box』文藝春秋、2017年
(※5)リュス・イリガライ『性的差異のエチカ』浜名優美訳、産業図書、1986年
(※6)ジャック・デリダほか『テロルの時代と哲学の使命』藤本一勇ほか訳、岩波書店、2004年
(※7)David Brewster, Memoirs of the Life, Writings, and Discoveries of Sir Isaac Newton, Volume Ⅱ:Cambridge University Press, 2010.
(※8)藤野寛『「承認」の哲学』青土社、2016年

 
<正木 伸城 氏:その他コラム記事>
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