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「努力が報われない社会」に向かっている? 自己責任論が根強い日本の貧困に対し、今あなたができること

経済学者ピケティの理路で「努力しないから貧しくなる」を吹き飛ばす

 日本の貧困問題について社会的成功者(と見なされていそうな人)たちに意見を伺った。彼らの多くが「貧しいのは本人の努力不足ゆえ」という見解をもっていて正直びっくりした。市場の動向にすばやくキャッチアップすることを大事にしている人たちが、市場に確かな位置を占める「貧困層」について理解をもっていないのである。あるいは彼らの言う「市場」に貧困層はふくまれないのだろうか。だとしたら、ことは深刻というほかない。

 わたしはボクシング漫画『はじめの一歩』の言葉を思いだした。
 「努力した者が全て報われるとは限らん」
 「しかし! 成功した者は皆すべからく努力しておる」(*1)
 ボクシングジム会長の言だ。この言葉にふれた当時、わたしは高校生だったけれど、これには得心がいった。「世のなか報われない努力はある」とわたしも感じていたからだ。
 あれから約20年。いま貧困層にとっての「努力が報われる=(たとえば)経済的な上昇をとげる」確率は、きびしいほどに低くなった。

 数年前の「ピケティブーム」はご記憶の方も多いと思う。経済学者ピケティの『21世紀の資本』がベストセラーになった。社会的成功者たちも、多くがピケティに群がった。しかし、ピケティが世に問うたことが彼らにピンとこなかった可能性がある。なので、ここでかんたんに解説する。

 『21世紀の資本』で「r>g」という不等式が有名になった。詳細は省くが、この式は、「成長率が低い経済のなかでは、『労働』から得られる所得よりも『保有する富』が生みだす所得のほうが大きくなる」ことを示している(*2)。

 表現がむずかしかったかもしれない。
 誤解を恐れず要言しよう。
 つまりピケティは、「汗水ながして働いて得られるお金よりも、資産家が資産運用等で得るお金のほうがはるかに多くなっていく社会」が今まさにあって、しかも「金持ちはより金持ちに、貧乏はより貧乏になりやすい環境が刻々と生まれている。その原因が資本主義なのだ。資本主義はそのようにできている」と分析的にのべた。

 貧乏人が努力しても、金持ちとの格差は基本、広がる。
 金持ちの子は金持ちに、貧乏人の子は貧乏になっていく。

 この結論は「努力や能力の差が、経済格差にあらわれる」という新自由主義者が好む理路を吹き飛ばす威力をもっていた。

「貧しい人にチャンスがこない社会になっている」(政治学者パットナム)

「貧しい人にチャンスがこない社会になっている」(政治学者パットナム)

 しかし、社会的成功者たちは反論するかもしれない。「もちろん報われない努力もあるけれど、成り上がりのチャンスを活かせば富者になれる可能性はある。チャンスを活用する努力はすべきではないか。要は、努力の『しどころ』の問題だ」と。

 ところが、ピケティのすぐあとに政治学者パットナムがこの見方を粉砕した。パットナムはアメリカを例にとり、「貧しい人たちは教育や就労の場を選べなくなっている。彼らの成功のチャンスはどんどん失われている」と分析的にのべた(*3)。パットナムは、成り上がりのチャンスがめぐってこない貧困層の実態を示し、アメリカン・ドリームは破綻の危機に瀕していると訴えた。

 貧しい人が成り上がれない社会は、アメリカの「今」である。
 そしてそれは、多分にして日本の「遠くない未来」でもある。
 なぜなら、日本はグローバル化という「アメリカ化とも形容できる取りくみ」に余念がないからだ。否、わたしの肌感で言えば、成り上がれない社会はもはや日本の「今」といえる。

 貧困層は努力を惜しまない。それでも経済的にうかばれない。彼らには「今を生きるために必要な『防衛本能的な努力』以外にリソースを割く余力」がないからである。にもかかわらず、彼らに「チャンスをモノにする努力くらいすれば?」と言えば、「道義的にどうなの?」との大衆の反応を呼び起こすだろう(希望的観測)。社会的成功者たちも、これには同意する気がする。

 しかし彼らは、とっさの時には「努力不足が貧しさを招いている」と語る。彼らにとっては、市場に存在するはずの貧困層が「存在しない」ことになっているからだ。
 誇張的にいえば、商売モードに入った瞬間、彼らの視野から貧困層は「消える」。
 そのため、ビジネスシーンにいる彼らは、おそらく「貧しい人たちが日々生活のなかで『俺(わたし)って、貧しいな(弱者なんだな)』と確認させられるシーンに幾度となく遭遇し、傷ついている」ことを知る機会をほとんどもたない。
 「家賃を滞納して住居を失った」「ブラック企業で酷使されて心身を壊し、再就職もできない」「家族との関係が悪く、行き場がない」といった悩みはたくさんの要素がからんでいて、個人の力ではとても解決できない。その「複雑さ」に理解が及ばないので、「自己責任」という単純思考で切って捨てて、彼らは(見た感じ)平気でいられる。

日本の貧困の実情を「貧困層以外の人」が訴えることの大事さ

 わたしたちは「個人」であるまえに共生体の一員である。「家族の一員であるまえに個人である」という人間はこの世に存在しない。親に依存し、保護され、扶養される存在として誰もが人生をスタートし、さまざまなファクターに支えられ、育てられ、「今の自分」が形づくられている。「今の自分」に至るまでにかかわった無数の要素を思うと、今の自分が「たまたま」あるにすぎないことに気づく。途中の要素のどれが欠けても今の自分はなかったかもしれない。そういった推論は成り立つし、そう思えば「今の俺があるのは俺の実力」とは口が裂けても言えない。

 それでも「自己責任論」をふりかざして社会的成功者が恥じないでいられるのは、きびしく言えば、世論がそれを受け入れているからである。また、結構な数の貧しい人たちも「俺(わたし)の努力が足りないから、食べるのにも困る現実があるんだ」と思っている(思いこまされている)。たとえば社会運動家・藤田孝典さんが「貧困は切実な日本の問題である」ということの確かさを強調しつづけている(*4)のは、「日本の貧困」に対する日本人の自覚が足りないことに起因する。

 「貧困って、遠い国の話だよね」と根拠もなしに思っている人は案外、多い。流行の『FACTFULNESS』という著作は、「事実」から出発して「思い込み」を打ち破る作法を紹介している(*5)。ビジネスエリートなら既読だろう。しかし、日常に戻った瞬間、彼らの多くは「それまでの思い込み」に居直り、『FACTFULNESS』のメッセージを「既読スルー」してしまう。

 同書に、こんな質問がでてくる。

 問.世界の人口のうち、極度の貧困にある人の割合は、過去20年でどう変わったでしょう?

 A 約2倍になった
 B あまり変わっていない
 C 半分になった(*6)

 正解は「C」。単純な3択だが、14カ国12000人のほとんどはこの設問に正解できなかった。「貧困問題は年々、深刻になっている」と思い込んでいるからだ。仮に「貧困が改善されている」という「ファクト」を目にしても、わたしたちの多くは記憶を更新しない。もっといえば、わたしたちは、自分が正しいと思っていることの反証になる情報をときに無視する習性をもつ。なので、「日本は貧困を抱えている」という事実はなかなか浸透しない。

 そんなことを考えていたので、わたしは本稿で、日本の貧困について、あらためて強度をたずさえ、のべた。自己責任論はもともと品がない議論だけれど、それはファクトからも縁遠い。読者諸賢にはこのことを語っていってほしいと思う。

 貧困層には、インターネットが日常でない人がたくさんいる。彼らが「自らの貧しさ」に問題意識をもち、ソリューションにたどりつくよう努力することも必要かもしれない。が、それよりずっとハードルが低いのが、「貧困層以外の人が認識をあらため、となりの悩める人に、解決につながる情報を提供しようと努力すること」である。まず「困っている人の『隣人』に、あなたがなる」こと。そして、貧困に悩む人同士、貧困の解決に向かおうと思う人同士がつながることである。そこに希望の種が、植わる。地道だが、そんな土壌づくりから世論の醸成をうながしたい。

 いま世のなかは「努力が報われにくい領域が広がる社会」に向かっている。「グローバル化」の美名のもとに、「結果にコミット」できない(しにくい)努力が量産される環境を整備している。しかし、このことに自覚的な人は、あまりいない。一度立ち止まって考えをめぐらせる必要があるのではないか。グローバル化が待ったなしだとしても、このことを自覚して推進するのとそうでないのとでは、結果は天地雲泥の差になると私は思う。


[脚注]
(*1)森川ジョージ『はじめの一歩』第42巻、講談社コミックス、1998年
(*2)トマ・ピケティ『21世紀の資本』山形浩生ほか訳、みすず書房、2014年
(*3)ロバート・パットナム『われらの子ども』柴内康文訳、創元社、2017年
(*4)藤田孝典『下流老人』朝日新書、2015年、同『貧困世代』講談社現代新書、2016年ほか
(*5)ハンス・ロスリングほか『FACTFULNESS』上杉周作ほか訳、日経BP社、2019年
(*6)同上、一部表記を改めた

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