内部不正 × メディア × SNS が企業に及ぼす影響とは? HIROTSUバイオサイエンス事案に学ぶ現代型リスクマネジメント
線虫を使った尿がんリスク検査「N-NOSE®」を実用化した株式会社HIROTSUバイオサイエンスは、創業わずか5年でユニコーン企業に成長した注目のバイオベンチャーである。ところが2021年末以降、元従業員(後に書類送検)が不正に持ち出し、加工した機密情報をもとに、週刊誌やSNS型メディアによるネガティブ報道が相次ぐ事態となった。なかでも「疑惑のユニコーン」と銘打った7回連続の特集記事がSNS上で爆発的に拡散し、同社の信用に深刻なダメージを与えた。
2026年、元従業員が不正競争防止法違反容疑の疑いで書類送検されたことで報道の一部について信頼性に疑義が生じ、騒動は沈静化に向かっている。同社は今、この経験を糧に信用回復と体制強化への歩みを着実に進めている。本事案は「内部不正×メディア×SNS」の複合リスクが企業を直撃した典型例だ。何が起き、どう対処し、何を学んだか、広津崇亮社長へのインタビューをもとに、その全貌と教訓を詳しくお伝えする。
はじめに
♪はーじめまーして線虫です♪
親しみやすい歌詞とメロディにのって、かわいらしい線虫のキャラクターが歌い踊るCMを覚えているだろうか。
広告主は株式会社HIROTSUバイオサイエンス(東京都千代田区)。2016年設立のバイオベンチャーである。同社は、線虫(体長1mmの小さな生物)を使って、尿からがんのリスクを調べるという、世界でも類を見ない検査「N-NOSE®」を実用化。2021年、創業5年で日本のヘルスケア分野で初めて評価額1000億を達成しユニコーン企業となった。
だが好事魔多し。同年の末、有名週刊誌に「内部告発者の証言」という形で線虫がん検査の信頼性への疑義が掲載されたのを皮切りに、否定的な報道が相次ぐようになる。元従業員(※書類送検済)の手で不正に持ち出され、加工された機密情報が、一連のネガティブ報道の根拠となった。
逆風が激化したのは、「疑惑のユニコーン」と題し不正を決め付けたSNS型メディア(係争中)による7回連続の特集記事だった。
2024年の兵庫県知事選を混乱させた、SNSによるネガティブ情報の爆発的拡散が、本件でも起きてしまったのである。去る2月、元従業員が書類送検されたことで、SNS型メディア記事に対する信頼性に疑義が生じ、騒動は沈静化したが、同社の「reputational damage(信用毀損)」回復への道は平坦ではない。
この事案は、現代企業が直面する「内部不正 × メディア × SNS」の複合リスクの典型例であり、人事・総務担当者にとっては「他山の石」として学ぶ価値が極めて高い。そこで本記事では、広津崇亮社長へのインタビューをもとに、何が起きたのか/なぜ起きたのか/どう防ぐべきか/何を学ぶべきかを体系的に提示する。
※書類送検されたことは、元従業員の行為が「公益通報」ではなく「不正な情報持ち出し」として捜査機関が判断したという意味を持つ。元従業員が「内部告発者」であるとするメディア側の主張は否定されたことになる。
日本発のユニークなバイオ技術で急成長した“ユニコーン企業”を襲ったバッシングの嵐
HIROTSUバイオサイエンス(以下、HIROTSU)の広津崇亮氏が開発した画期的な検査の名前は「N-NOSE®(エヌノーズ)」 。線虫が“がん患者の尿に強く引き寄せられる”という生物学的性質を利用して、がんの一次スクリーニングを安価・簡便に行える点が大きな特徴だ。
これに加え「尿だけで検査できる(採血不要)」「全身のがんリスクを一度に評価できる」「価格が手頃で受けやすい」「検査時間が短い」「研究論文(世界的な学術誌に掲載された)に基づく科学的根拠がある」等の利便性と革新性から、一般の人々の間で急速に広まり、短期間で受検者数が急増した。
このN-NOSE®の普及とともに、HIROTSUは短期間で数十億円の資金調達に成功し、日本のバイオベンチャーとしては異例のスピードで“ユニコーン企業”と呼ばれる規模に成長した。
線虫をキャラクター化したアニメーションと歌による印象的なCMも効果を発揮し、「線虫がん検査」という言葉は一気に一般層に浸透した。がんリスク検査としては異例の“親しみやすさ”を生み、N-NOSE®の知名度を一気に押し上げたのである。
かくしてN-NOSE®は、がん検診の受診率が低い日本において、「まずは気軽に受けられる一次スクリーニング」として注目を集めることになる。
・がんは早期発見が最重要
・しかし従来の検査は「痛い・高い・時間がかかる」
・その壁を取り払う技術として注目された
といった背景から、医療界・投資家・一般ユーザーの間で大きな期待を集めていった。
そんな中、2023年以降、同社に嵐のような逆風が吹き始める。
・元従業員による機密情報の不正持ち出し
・それを基にした週刊誌・SNS型メディア・新聞等の報道
・SNSでの急速な疑惑拡散
・企業の reputational damage(信用毀損)
・メディア・元従業員への民事訴訟
次々と、複合的な危機に直面する。
あの知事選でも問題になった“デマのSNS拡散モデル”と類似するメディアの仕組み
唯一、同社を「虚飾のユニコーン」と決めつけ、世論を過度に煽る特集を掲載したSNS型メディアの事例に絞り、広津崇亮氏に話を聞いた。
ちなみに、このメディアのビジネスモデルは「SNSでの拡散を前提とした、読者参加型の話題化戦略」で、従来の新聞・テレビとは異なる構造が特徴だ。
まずは、元従業員について。
「本件は、当社の研究部門の元従業員が、在職中に知り得た当社の機密情報を取得し、加工し、漏えいした疑いが生じた事案です。元従業員は研究部門の管理的立場にあり、情報管理ルールを定める側でした。
しかし、機密情報を取得・加工し、第三者に漏えいした事実を民事裁判で認めています。持ち出された情報には、実用化製品とは関係のない検討段階のデータも含まれており、文脈を欠いた形で報道されたことは重大な問題です」(広津氏)
報道によると、元従業員はメディアに対して、「N-NOSE®の精度は宣伝している数字よりも著しく低い」と証言し、その根拠として、自分がかかわった実験のデータを提出したことがわかっている。しかし、そのデータは、実用化前の試行錯誤中の失敗例で、実際に世に出た検査とはまったく関係のないものだったと広津氏は言う。
だが、SNS型メディアは、「公益性のある内部告発に基づく調査報道」と位置づけ、連載形式で疑惑を積み上げて「HIROTSU=ネガティブな企業」のイメージを拡散させた。
「当初は、記者の方から前向きな姿勢でご連絡をいただいていたことや、過去に当社に関するポジティブな発信もあったことから、こうした展開になることは想定していませんでした。そのため、当社は誠実に対応すべく、研究所や検査センターも公開しました。
が、途中から当初の想定とは異なる観点での質問や論点が提示されるようになり、明らかに科学的に間違っている主張を記者が行い、それに対して誤りを指摘したにもかかわらずそれを認めないなど、取材姿勢の変貌に驚きました。結果として、今回のような形に至ることについては、当初は全く想定していませんでした」
そもそもHIROTSUの言い分に耳を傾けるつもりはなかったのだろう。「疑惑のユニコーン」という強いタイトルと、複数回に渡る連載によって、疑惑を煽りさえすれば、あとはユーザーが勝手に真実っぽく拡散してくれる。
このようにSNS時代のメディアは、拡散性が正確性を上回りやすい。内部告発という“物語性”が、事実確認より優先されがちだ。この仕組みは先の兵庫県知事選でも問題になった“デマのSNS拡散モデル”と類似する部分がある。
とはいえ、元従業員の主張を、公益通報として扱ったのは一部のメディアに限られ、他の大手メディアは追随しなかった。大手メディアとSNS型メディアのリスク管理の差は大きい。本件ではSNS型メディアにおける拡散構造の影響も相まって、結果として騒動が大きく広がる形となった側面がある。
最終的に HIROTSUは、外部弁護士を含めた社内調査を経て元従業員を不正競争防止法違反容疑で、SNS型メディアの運営会社と記者を名誉毀損の容疑で提訴。その後、元従業員に対しては捜査機関による捜索差押え等の強制捜査が行われ、書類送検に至った。今後の訴訟においても、元従業員の行為の違法性が認定されれば、民事訴訟継続中のメディア 側の立場は極めて不利なものとなるだろう。
「臭いものにはフタをする」では太刀打ち不能なSNSへの毅然とした対応に学ぶ
日本には「臭いものにはフタをする」風潮がある。これは、悪臭の原因を絶たず、ただ蓋をして臭いを防ぐという比喩から、表面だけを取り繕ってやり過ごす様子を表わす。実際、日本企業の多くは、不祥事等のネガティブな事案が明るみになった場合、自社の善悪や真相は別として、とりあえず謝罪して済ませようとしがちだ。それでは根本的な解決は望めない。
だがHIROTSUは違った。事案発覚後に素早く、毅然として、当該メディアおよび記者に対する民事訴訟を提起したのである。
「本件については、一連の報道内容およびその影響の大きさを踏まえ、当社として看過できない問題であると判断し、弁護士を通じて当該メディアおよび記者に対する民事訴訟を提起いたしました」
SNS型メディアは既存のメディア(新聞・テレビ)とは“別の生き物”だ。
〈SNS型メディアの特徴〉
・タイトルが強く煽られる
・読者コメントが記事の“第二の本文”になる
・読者の反応がアルゴリズムで拡散を加速
・記者の専門性が低くても問題にされにくい
・訂正記事はほとんど読まれない
・「疑惑」は「事実」より強く拡散する
HIROTSUの事案はまさに、この構造が企業に直撃した典型例であり、対応としては “SNSは火災と同じで初期消火がすべて”。従来の広報対応では太刀打ちできない。
〈SNS型メディアの怖さ〉
・情報が瞬時に拡散する
・誤解が訂正より早く広がる
・タイトルだけが独り歩きする
・コメント欄が“疑惑の増幅装置”になる
HIROTSUの初動対応は、具体的には次のようなものだった。
迅速に「一次声明」を出した(理想は24時間以内)。
・事実関係の確認
・誤情報の否定
・調査開始の宣言
・利用者への安心メッセージ
誤情報を“放置”しない。
・公式サイトで科学的に反論(科学的)
・SNS型メディアの編集部に出向いて説明
・ステークホルダーへ個別説明
・医療界・専門家への説明
HIROTSUはここを徹底したため、SNS型メディアの報道を止めることはできなかったものの、ユーザー離脱はほぼゼロだったという。
「一部のステークホルダーや社内には不安になった方もいたと思いますが、応援の声の方が圧倒的に多く、社内も一枚岩になって戦う姿勢を示した社員が大多数でした。真実を知っているからです。ユーザーへの直接的な影響は限定的で、クレームもほとんどありませんでした。
一方で、資金調達には大きく影響が生じ、当社の成長機会の一部が失われたと認識しています。その結果、がんリスク検査の普及を通じて早期発見に貢献するという当社の使命の実現に、一定の影響が生じたことについて、忸怩たる思いがあります。また、医療関係者の中でも当社の研究論文をご覧いただいた方々への影響は限定的であったと認識していますが、報道のみをご覧になった方々には、何らかの影響があった可能性があると考えています」
甚大なダメージを被ったことは否定できないが、「科学的誤情報に対して毅然と対応する」という広津氏の姿勢は、一定の妥当性があると考えられる。
「当初はベンチャー企業ということもあり、広報体制が十分に整っていない中で、初動対応から事後対応に至るまで必ずしも万全とは言えない部分もありました。一方、ベンチャーならではのスピード感ある対応や、研究開発型企業として科学的妥当性に疑義がある情報に対して毅然と対応するなど、当社独自の動き方が一定の効果をもたらした面もあります。また、本件は会社の不祥事ではなく、誤情報が拡散した事案でもあり、通常の対応と異なる面もありました。その中で、事件発生時における情報整理や発信のタイミング、社内外への共有のあり方などについて、多くの学びがありました」
情報管理体制の改革など“疑惑の燃料”を生み出さない体制づくり
現在HIROTSUは、今回の経験を踏まえ、広報体制および事件対応体制の改革を進めている。
「初動対応から事後対応までを一連のプロセスとして整理し、対応フローや判断基準を明確化するとともに、マニュアル化やナレッジの蓄積を進めています。具体的には、機密情報へのアクセス管理の厳格化や運用ルールの見直しを行うとともに、コンプライアンス研修を通じて社員の意識向上を図っています。あわせて、これらの施策が実効的に機能しているかを継続的に検証し、必要に応じて改善を重ねています」
情報管理体制の改善(内部不正の芽を摘む)
・アクセス権の厳格化
・ログ監査
・USB・クラウド制限
・退職者管理の徹底
・機密情報の分類と管理
・管理職のコンプライアンス教育
今回の事案では、元従業員による機密情報の不正持ち出しが“疑惑の燃料”になった。この最大の教訓から、情報管理体制の改革には特に力を注ぐ必要がある。
内部通報制度の整備
・匿名通報窓口、外部窓口の設置
・通報者保護の明確化
・内部通報と悪意ある通報の線引き
内部通報制度自体は整備していたものの、より実効的に機能していれば、元従業員による問題提起についても、社内で適切に対応・解決を図ることができた可能性がある
メディアリストの整備
・信頼できる記者
・専門性のあるメディア
・誤解が生じやすいメディア
これらを把握しておく。
「SNS型メディアは“内部告発”という物語を好む傾向がある」など、各メディアの特性を把握・理解し、対応を最適化する。単純に、相手にしなければいいでは済まされない。
攻めの対策(平時の情報発信)
本事案では、一部の検診関連団体等による受け手によっては誤解が生じ得る情報発信や、SNS型メディアによる報道が重なり、結果として議論が広がる一因となった。
医療・バイオの分野は特に、専門性が高く一般読者が理解、判断しにくい上に、“疑惑”の方がセンセーショナルで拡散しやすい。一方で、訂正記事や補足情報は読まれにくい、現代のメディア報道においては科学的議論が単純化されやすい……という構造があり、一度「疑惑」が広まると企業側が不利になりやすい領域だ。
「メディア対応においては、取材内容を正確に理解いただくためのコミュニケーション設計や、誤解が生じないような情報提供のあり方が重要であると感じています。そのため、事実関係やエビデンスを適切に示しながら、必要に応じて補足説明を行うなど、丁寧かつ慎重な対応が求められると考えています」
具体的には、次のような対策だ。
・透明性の高い情報発信の強化
・科学的根拠の公開
・研究データの説明
・きめ細かなQ&Aの整備
・誤解されやすいポイントの先回り説明
専門領域の“翻訳者”を育てる
・科学を一般向けに説明できる社員
・医療界と対話できる社員
・メディア対応ができる社員
こうした人材を育てることが、SNS時代の最大の武器になる。
「ステークホルダーおよび医療関係者に対しては、個別の説明機会を通じて丁寧なコミュニケーションを重ね、理解の促進と信頼関係の維持・回復に努めてまいりました。また、社内においても情報共有と対応方針の徹底を図り、組織として一貫した対応が可能となる体制整備を進めております。医師に対しては、科学的説明をして納得していただくことが必要であり、その説明ができる社員の育成を行い、医療界との継続的な対話を続けていきたいと考えています」
いわずもがなかもしれないが、手痛い経験から学んだ広津氏の言葉は重い。
世のため人のため、若い研究者のために
「私は、自分のためには頑張れない。世のため人のため、若い研究者のためなど、誰かのためだから頑張れます」
そうした信念のもと、同社は今後、新たな方向性をめざす。
「(第一に)ベンチャーとしての運営体制から一つ段階を上げ、システム・教育・組織文化の各側面において、再発防止やガバナンス強化を含めた継続的な見直しを行い、より安定した運営体制の構築を進めていきます」
「単に『がんの一次スクリーニングを提供する企業』という位置付けにとどまらず、生物が持つ多様な能力を活用して社会課題の解決を目指すバイオベンチャーとして当社は設立されました。N-NOSE®はその社会実装の第一号の取り組みであり、現在もがん領域に限らず、生物の特性を活かしたさまざまな研究開発を進めています。
一方で、日本国内においては研究環境や研究資金の面で課題も指摘されており、若手を含む有能な研究者が十分に活躍しにくい状況があると認識しています。こうした状況の中で、研究者自身が研究成果の社会実装に関わり、研究と事業の両面から価値創出に取り組むことは、次世代の研究者にとっても一つの選択肢になり得ると考えています。
今後は、こうした考え方のもと、研究者が自身の研究に専念しながらも、その成果が社会に届きやすい環境づくりに貢献していくことを目指しています。また、将来的には若手研究者を支援・育成するような取り組みも含め、研究者がより活躍できる環境の実現に寄与していきたいと考えています」
実は、従業員が自分の仕事・会社に誇りと愛着を持ち、希望を胸に活躍できる環境・文化の構築は、ガバナンス強化以上に大切なのではないだろうか。ガバナンス強化が北風なら、こうした企業風土の醸成は太陽だ。
私たちは、SNSが席巻する新しい時代を生きている。優れた科学技術、誠実な姿勢だけでは、自社を守ることはできない。HIROTSUの事案に学ぶべきことは大きい。










