がんは“治す病気”から“働きながら向き合う病気”へ がん研有明病院の改革が示す、企業が取り組むべきサバイバーシップ支援
2026年4月30日、がん研究会有明病院(東京都江東区)は記者向けの説明会を開催した。テーマは、同院が新たに打ち出した「がんサバイバーシップ支援」と、患者の人生を丸ごと支える「トータルケアセンター」のリニューアルである。
はじめに
日本のがん医療は長らく「死亡率の低下」を最優先に進化してきた。しかし治療技術の進歩により、(依然として、死因のトップではあるが)がんは“死なない病気”になりつつある。治療を続けながら働き、生活を営む人が増えた今、医療機関は治療だけでなく、患者の人生そのものを支える役割を求められている。
そしてこの変化は、企業にとっても無関係ではない。近年、人事・総務部門には「がんになったが働き続けられるか」「治療と仕事を両立できる制度はあるか」といった相談が増えている。がんは、企業にとっても“人的資本”の重要課題になりつつあるのだ。
今回の説明会で明らかになったのは、がん専門病院のトップブランドであるがん研有明病院が、医療の枠を超えて「患者の人生を支える」方向へ大きく舵を切ったという事実である。これは、企業がこれから向き合うべき方向性を示すシグナルでもある。
医療の大転換:病気だけでなく“人生”を支える時代へ
「がんになっても患者の人生は続いていく。病気の治療だけでなく、経済的・社会的な側面も含めて支えるのが医療の使命だ」
4月1日に病院長に就任した渡邊雅之医師は昨年、全国紙のインタビューにそう答えていた。
新たなスタートを切った「トータルケアセンター」は、そうした理念を具現化するものであり、がん医療のパラダイムシフトを象徴している。
がん治療は、低侵襲手術や外来化学療法の普及により、入院期間が短縮され、患者はより早く日常生活に戻るようになった。
一方で、治療の副作用や外見の変化、仕事や家庭の問題など、生活上の課題はむしろ増えている。つまり、「治療が終われば元通り」ではなく、「治療と生活が同時進行する」時代になったのだ。
この変化に対応するため、同院は院内に分散していた支援機能を統合し、トータルケアセンターを大幅に拡張した。医師、看護師、ソーシャルワーカー、管理栄養士、心理士など約60名が一つのフロアに集まり、患者の困りごとをワンストップで解決する体制を整えた。
経営危機の中で“支援”に投資した理由
今回の改革の背景には、医療機関が直面する厳しい経営環境がある。
・病床稼働率の低下
・診療材料費の高騰(32カ月で1300品目値上げ、約4700万円のコスト増)
・働き方改革に伴う人件費の増加
こうした状況を受け、同院は2024年に42床を閉鎖し、外来治療センター(83床)へ転換した。しかし、経営が厳しい中でも、同院は「患者支援」に投資した。その理由は明確だ。治療だけでは患者の満足度は上がらず、病院ブランドも維持できない。患者の人生を支えることこそ、これからの医療の価値になる。
これは、企業にとっても示唆に富むものだ。人材が流動化し、採用難が続く中で、従業員の健康と働きやすさを支えることは、企業価値そのものに直結するからだ。
患者の“人生の困りごと”を丸ごと支える
リニューアルしたトータルケアセンターは、白とオレンジを基調とした明るい空間に、相談カウンター、情報ラウンジ、多目的室などが配置されている。新規患者は必ずここを通る動線になっており、初診時から生活背景を把握し、早期に支援を開始できる。
(1)就労支援:離職を防ぐための“初診時介入”
厚労省の調査では、がんと診断された人の約2割が離職している。特に多いのは「診断直後」「治療開始前」の離職だ。
片岡明美センター長は、こう語った。
「治療への不安、外見の変化、仕事への影響など、悩みが大きい時期に誰にも相談できず、辞めてしまう方が多いのです」
同院では、初診時の問診票で「仕事との両立不安」を把握し、早期にソーシャルワーカーが介入する。これにより、離職を防ぎ、治療と仕事の両立を支える。
(2)排便機能外来:命は助かっても、生活が壊れてしまう人を救うために
今回のリニューアルで特に注目すべきなのが、大腸がん患者向けに新設された「排便機能外来」だ。
大腸がん、とくに直腸がんの手術後には、多くの患者に排便機能障害が起こる。すべての患者に生じるわけではないが、頻便、便意切迫、便漏れなど、日常生活に大きな影響を及ぼす症状が一定の割合で発生する。
直腸がん手術の目的は、もちろん「命を救うこと」である。しかし、がんを取り除く代償として、どうしても避けられない後遺症が残ることがある。排便回数が増え、外出先でトイレを探し続ける生活。常に便漏れのピンチにさらされるストレス。「いつ漏れるかわからない」という不安から、仕事や外出を控えるようになる人も少なくない。
命は助かったのに、生活が壊れてしまう——。このギャップは、これまで医療の中で十分にケアされてこなかった領域だ。
がん研有明病院は日本で最も多くの大腸がん手術を実施しており、患者からは「生活の質(QOL)を取り戻したい」という切実な声が寄せられていた。
その声に応える形で、今回の排便機能外来が新設されたのである。同外来では、排泄機能の障害を改善するための専門的なトレーニングや食事指導を行う。特に注目されるのが「バイオフィードバック療法」だ。
これは、肛門周囲の筋肉を締めたときの圧の変化を、特殊な装置を使って“目で見える形”にしながらトレーニングする方法である。患者は自分の筋肉の動きを視覚的に確認しながら、適切な力の入れ方や排便のコントロールを学ぶことができる。
排便障害は、患者本人にしかわからない深刻な苦痛を伴う。しかし、適切なトレーニングや生活指導によって改善できるケースは多い。
「排便障害は“命に関わらないから後回し”にされがちですが、患者さんの社会復帰にとっては極めて重要な問題です。仕事に戻れるかどうか、外出できるかどうか、人生の質そのものに直結します」(片岡氏)
排便機能外来の新設は、まさに「治療後の人生を支える」という同院の理念を体現する取り組みだ。
(3)アピアランスケア:外見の変化は“働く意欲”に直結する
脱毛、むくみ、手術痕など、外見の変化は患者にとって大きなストレスだ。同院の調査でも、多くの患者が「身体症状より外見の変化の方がつらい」と回答している。
ウィッグ試着室やケア帽子の相談など、外見ケアを強化した背景には、こんなエピソードがある。
航空会社に勤めるある患者は、「がんになっても空の仕事を続けたい」と、自社のイメージカラーの刺繍入りケア帽子を選んだという。
「その人らしさが仕事にある場合、患者さんは治療中でも社会とつながっていたいと願います」(片岡氏)
(4)妊孕性温存支援:若年患者の“未来の選択肢”を守る
乳がん治療では、5〜10年のホルモン療法が必要な場合がある。治療完了を待つと、出産のタイミングを逃してしまうことも多い。同院では、治療前に受精卵を凍結し、治療が安定した段階で一時休薬して妊娠を目指す支援を行っている。
片岡氏は、45歳で出産に至った患者の事例を紹介し、「がん専門病院でありながら、次の命の誕生を支える病院でもある」と語った。
がん治療の進歩によって生存率が向上した今、医療者が向き合うべきは治療のさらに先にある、「患者一人ひとりの長期的な社会生活を充実させること」だ。
治療の副作用や後遺症の苦しみを放置することを「溺れる人を水から引き上げる先進技術を生み出した後、引き上げたのだからやるべきことはやったと考え、咳き込んで水を吐くその人を放置しているようなものである」というアメリカ人医師フィッツヒュー・マラン(Fitzhugh Mullan)氏の言葉になぞらえ、「治療後の生存率を高めることだけではなく、どれだけその人らしさを支援できているかが、専門病院として問われている」と強調した片岡センター長の言葉が胸に響いた。
がん患者の離職は“企業の大損失”である
がんは、企業にとっても重大な経営課題だ。日本では毎年100万人が新たにがんと診断される。そのうち働く世代(20〜64歳)は約3割。診断後の離職率は約20%。
特に、診断直後の離職は企業にとって大きな損失だ。経験豊富な社員が突然辞めることで、業務の停滞、採用コストの増加、ノウハウの喪失が生じる。しかし、がん研有明病院の取り組みが示すように、早期介入と適切な支援があれば、離職は防げる。企業が医療機関と同じ方向を向くことで、従業員の人生を守り、企業の人的資本も守ることができる。
企業が今すぐできる「がんサバイバー支援」チェックリスト
医療機関がここまで踏み込んでいる今、企業も動くべきタイミングに来ているのではないだろうか。以下は、企業がすぐに取り組める実務的なポイントだ。
● 診断直後の相談窓口を設ける
・人事・産業医・看護職などが連携
・「辞める前に相談できる」仕組みをつくる
● 治療スケジュールに合わせた柔軟な勤務制度を設ける
・時短勤務
・リモートワーク
・通院休暇
・フレックス制度
● アピアランスケアへの配慮
・制服、ドレスコードの柔軟化
・ウィッグ・ケア帽子の使用許可
● 上司・同僚への理解促進研修
・がんと仕事の両立支援
・ハラスメント防止
・配慮の仕方
● 復職プロセスの明確化
・復職面談
・段階的な業務復帰
・定期的なフォローアップ
● 社内ガイドラインの整備
・「がんと仕事の両立支援ガイドライン」を作成
・従業員が安心して相談できる環境を整える
医療と企業がともに“その人らしさ”を支える時代へ
がん研有明病院の改革は、医療界の大きな転換点である。治療だけでなく、患者の人生を支えることが医療の使命になった。そしてこれは、企業にとっても同じだ。がんになっても働き続けられる社会をつくることは、従業員の人生を守るだけでなく、企業の持続的成長にもつながる。サバイバーシップ支援は、医療の課題であると同時に、企業の経営戦略である。これからの企業は、がんとともに生きる社員と“共に歩む”存在になることが求められている。










