理想論と言って切り捨てないで。あなたにいてほしい――居場所づくりをめざす、やさしい「働き方改革」を考える
高橋まつりさんの死から、あらためて問いをたてる
時代が、社会が、熱にうかされ、地に足がつかないまま一斉に、一方向的につきすすもうとするとき、「ちょっと待って」「立ち止まって」「すこし、考えようよ」と人びとに声をかけ、時流の淵源やことがらの目的と現況を照らしあわせて、「このままでいいのかな」と問いかけることが「知」の役割だとわたしは思っている。
いま「働き方改革」が言われているけれど、あたかも出口に殺到する群衆のように「われ先に」と改革をはじめたとしたら、それは「狂熱」と名ざしされて歴史の審判にさらされるかもしれない。政治学者・丸山眞男なら、「つぎつぎになりゆくいきほひ」(*1)が時代を形容する言葉として機能していると、ひざを打つだろう。
時代が、他人事に感じられながら人びとのあいだを過ぎ去って、のちのち「あのとき、ああしておけばよかった」と後悔をもって総括されないように、わたしは丁寧に、今あるものごとを言葉にして、読者の意識にのぼらせたいと思う。
きょうは、その「働き方改革」をあつかう。
「働き方改革実現会議」がはじまったのは2016年である。直後に、広告代理店「電通」の新人・高橋まつりさんの過労自死が労災認定された事件が明るみになった。ご記憶の方も多いのではないか。彼女はその前年12月に投身自殺している。
電通の勤務実態が明らかになるにつれ、世論は過熱した。長時間労働是正などの労働環境改善へ危機感が急速につのった。
あれから2年半。
悲しいことに、熱狂は冷(醒)め、状況は落ちついてきているようにわたしには感じられる。かつて世間は、高橋まつりさんが「働き方改革」に魂魄をとどめてくれたことを知った。彼女は、改革に意味をもたせようという機運を高めてくれた。わたしはその「意味」を、同改革関連法が施行された今月にあえて問い返したいと考えている。
私たちは、何のために働き方改革をする(している)のか?
もちろんその「意味」とは、政府から与えられるものではなく、高橋まつりさんの死をふくむさまざまなファクターから多くの日本人が感じた「危機」への応答の作法として語られるべきものであり、働き方改革という語に託さなければならない実質的なものを指す。
2016年10月19日、「働き方改革に関する総理と現場との意見交換会」で安倍晋三首相は、高橋まつりさん自死への悲しみを述べつつ、改革の目的が生産性向上にあると語った(*2)。
「人の生死にかかわるような労働の場で、生産性にウェイトをかけた改革? それでいいのか?」
鋭敏な感性をはたらかせた人びとは、これに違和を唱えた。
生産性向上も大切な課題ではある。生産性が上がれば、残業も減るかもしれない。それが労働者のインターバル確保につながり、過労を防ぐかもしれない。だが、高橋まつりさんの死は、小手先では解決しない、もっとラディカルで大切なことを社会に問いかけたと思う。
「ぼく(わたし)に居場所なんてない」との確信が人を死線に導く
そもそも過労と自死は「別の問題」という側面ももっている。長時間働いて過労になった人が、必ず自死するわけではない。総実労働時間が長い地域ほど、そこに住む人の自死率が高まるという分析もあるが(*3)、誤解を恐れずにいえば、働く時間が短くなったとしても、労働環境によっては、死ぬ人は死ぬ。
なぜか?
(少々うるさい話になるけれど)社会心理学的な知見によると、人が自殺を求める主要因は、グッとしぼれば、「所属感の減弱」と「負担感の知覚」の2つになるという(*4)。それぞれをくだいた表現にすれば、「自分はここで必要とされていない」という感じと「自分は、みんなに迷惑をかけている」という感覚と言い換えできる。前者は「自分の居場所がない」気持ちともいえる。
人は、「ぼく(わたし)に、居場所なんてない」との確信に追いこまれたとき、死線に導かれる。
わたしは、この話は多くの人に通じる性質をもっていると思う。おそらく高橋まつりさんの自死も、また、その後もあとを絶たない労務関連の自死者も、居場所のなさに、深く、とてつもなく深く、「つらさ」を感じていただろう。
高橋まつりさんは、上司が放ったとされる暴言をTwitterに書きつらねていた。
「君の残業時間の20時間は会社にとって無駄」
「今の業務量で辛いのはキャパがなさすぎる」
「女子力がない」(*5)等々。
それに加えて、彼女は感懐をこうつぶやいていた。
「会社の人が豹変して恐い」
「残業するなって話なのに、新人は死ぬほど働け、とか、他にも理不尽なこといっぱい言われて意味わからないです」
「一日二十時間とか会社にいるともはやなんのために生きているのかわからなくなって笑けてくるな」(*6)
長時間の深夜にもおよぶ労働、パワハラ、セクハラ。悲痛さをたたえた彼女の言葉にふれると、少なくとも彼女が「職場」を「居場所」に感じていなかったことがうかがえる。
人にとって「居場所がある」ことは死活的に大切だ。
居場所とは「物理的な空間」を意味するにとどまらない。社会的なポジションも、「自分の存在意義」などの心理的要素も、みな居場所になる。社会学者・藤竹暁さんは「アイデンティティ(≒自分が自分であること)が確かめられる場所」と居場所を定義した(*7)。それは、「あなたに、そこにいてほしい」という他者の願いに支えられている。もっといえば、居場所は、人からの「共感」と「承認」によって成り立つ。
「あなたも苦しんでいるのですか」といった想像力にもとづく問いかけが、「共感」を淵源とするふるまいの一原型である(と、私は哲学者リチャード・ローティから学んだ<*8>)。悩める友に寄り添い、うめく相手と同じようにひざを屈し、手をたずさえる。そうされたとき、人は「安心」する。また、となりで「うん、うん」とあいづちを打ってくれる人がいると、人はやはり「安心」する。なぜなら、そのあいづちから「わかるよ=あなたの痛みを正確に理解したよ」というのではなく、「わかるよ=あなたに関心があるんだよ」というメッセージを受け取るからだ。これが「承認」である。
いま私が示した文脈からもわかるとおり、共感と承認は深く結びつく。その結びつきが強ければ強いほど、共感と承認は人に「居場所感」をもたらす。
もちろん、仕事における成功・賞賛・名誉も承認のあらわれではある。しかし、それらと共感のあいだにはかなりの距離がある。上記のような「共感とともにある承認」が根っこになければ、居場所は不安定にならざるをえない。
たとえば生産性向上でできた時間を、「心の余白づくり」に
このように、感情的なものによって居場所はつくられる。
残念ながら、高橋まつりさんの職場には、彼女が共感と承認を実感できる場が少なかった(あるいは「なかった」)のだと思う。全方位的に、職場における人と人の「つながり」(たとえば、強烈な上下関係とか)はあったけれど、彼女はそれらを絆(ほだ)しに感じ、そこに拘束感をいだいていた。彼女は自死の前、社内の各所に相談をもちかけていた。相談の窓口はあった。これは、少なくとも「つながり」があったことの証左である。しかし、それらは「居場所」としては機能しなかった。高橋まつりさんはほぼ終日「そこ(職場)に居た」にもかかわらず、「そこに居場所はなかった」のだ。
だからといって、私は何も、ローティが指摘したようなふるまいを職場の全員に課し、「君子たれ、そして居場所をつくれ」と訓戒したいわけではない。聖人君子が高橋まつりさんの救い手たりえたのかと問われれば、必ずしもそうはならなかったと私は答える。
共感と承認の多くは、人の心のちょっとした「余白」から生まれる。「余裕」と言い換えてもいい。余白のある人は、その余白をつかって、自分の心のなかに他者の居場所をつくる。余白さえあれば、べつに、君子でなくてもいい。
ただ、「心の余白の多少」と「時間的余裕の多少」がそれなりに関係しているという事実は、無視できない。多忙をきわめる人の多くは、たぶん心の余白をせまくしている。高橋まつりさんは他部署から「残業姫」と呼ばれ、心配されていた。一方で、同じ部署の同僚も似た状況のなかで働いて、体調をくずしていた。それゆえに彼女は、「ダメになる前になんとかしなきゃ」と同期を励ましていた(*9)。周囲に、心の余白はなかった。その余白のなさは、彼女が無理やり自身の心に(他者のために)余白をつくらねばならなかったほどだった。
新社会人の高橋まつりさんにとって、職場は、社会そのものといっていいほどに肥大化してみえたと思う。そんな職場で「居場所が見つからない」と感じたら、ショックは、はかりしれない。
あるいは、「彼女にべつの居場所はなかったのか」と問う人もいるかもしれない。端的に、それは「あった」。代表は、「家庭」である。彼女にとって家族はまぎれもなく「居場所」だった。だが、「家庭の居場所」がそのまま「職場の居場所」と似たかたちで機能するとはかぎらない。
『「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由』という本をご存じだろうか。この書を読めばわかるように、人は職場で追い込まれると、「ほかの居場所」が見えなくなったり、見えたとしても、そこに行くことに強烈な迷いを感じるようになる。人間とはそういう心理構造をもった生き物なのだ。同書にえがかれているとおり、また、以前のべた「負担感の知覚」が増大することによって、人は、「あの人に迷惑をかけちゃいけない」等の善意で、「ほかの居場所」へアクセスできる可能性や権利を切り捨てる(*10)。人は、そのように「できている」。
このような「人間」への理解が、「働き方」を考えるさいに必要だ。
高橋まつりさんは、強い善意をもって生きぬいた。
多くの自死者も、そうかもしれない。
「いま、あなたの職場に、あなたの居場所はありますか?」
「あなたは今、ほかのだれかの居場所になりえていますか?」
わたしは、高橋まつりさんの自死が、わたしに、社会に、あなたに、こう問いかけているように感じている。ならばわたしは、働き方改革を、居場所づくりの色彩でそめたいと思う。希望的観測を言うけれど、もし生産性が向上して働き手に時間の余裕が生まれるのなら、その時間を「あなたの心の余白づくり」に活かしてほしい。そう切に願う。それが、ほかのだれかの居場所になるから。居場所が居場所を生んで、それが働き手の安心につながるから。
こんな、やさしさをもとにした働き方改革を、みなさんは理想論と思うだろうか。
こんなキャッチコピーが、ある新刊に躍っていた。
「利益出せ/納期を守れ/早よ帰れ」
「ゼッタイムリ」(*11)
働き方改革が、そもそも矛盾の乗り越えをもとめるような高い理想なのだから、その理想にあらたな理想が加わっても、「多」としていただきたいとわたしは思うのである。
[脚注]
(*1)丸山眞男『忠誠と反逆』ちくま学芸文庫、1998年
(*2)「首相官邸ホームページ」から
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/actions/201610/19hatarakikata.html
(*3)天笠崇『救える死』新日本出版社、2011年ほか
(*4)Thomas E. Joiner Jrほか『自殺の対人関係理論』北村俊則訳、日本評論社、2011年
(*5)高橋幸美ほか『過労死ゼロの社会を』連合出版、2017年
(*6)同上
(*7)藤竹暁編『現代人の居場所』至文堂、2000年、( )は引用者
(*8)リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』 斎藤純一ほか訳、岩波書店、2000年
(*9)高橋幸美ほか、前掲書
(*10)汐街コナ『「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由』あさ出版、2017年
(*11)さわぐちけいすけ『僕たちはもう帰りたい』ライツ社、2019年、に付帯された帯のキャッチ
<正木 伸城 氏:その他コラム記事>
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