表裏の関係にある「女性差別」と「女性活躍」。実のある「活躍」時代へ向け今できること(前編)
気づかれない差別思想。しかし「見えにくい」だけで「ない」わけではない
「女性活躍」が言われ始めたとき、わたしは心して「活躍」という語を使ったほうがいいと感じた。このフレーズが必要になった原因の多くが、男性の影響によると思ったからだ。はなからの断言は憚られるけれど、「女性活躍」という考えは、女性への偏見・差別にもとづく思想と表裏の関係にある。しかしそれを自覚している男性は少ない。「女性活躍」の表現に「欺瞞性」を受けとっている男性もたぶん少ない。
今回わたしが語りだすことは「女性活躍」と「女性差別」のあいだに看取できるセンシティブな関係にかんすることである。耳を傾けていただければ嬉しい。
女性差別というと、構える人もいるだろう。差別を肯定する話こそ日常で目にすることはまずないものの、じつは差別は、文化・制度・人の言動等そこかしこに根をはっていて、しかも人びとに自覚されないことも多い。
わたしの(差別につながる行為をした側の)エピソードから具体例をとき起こそう。
数年前、家の購入を検討したときのこと。当時、乳児だったわが子をつれ、わたしたち一家は住宅展示場へ。土地探しのなかで複数の候補地について語り合った。その際、想像を超える細かな要素に配慮しつつ妻が議論を始めたので、わたしは驚いてしまった。
わたしが主な検討材料にしたのは、土地の広さ・価格等の土地にまつわる属性から、治安、交通上の安全、最寄り駅との距離、景観、病院の位置など。一方の妻は、近くのスーパーの場所や品ぞろえ、営業時間、街ゆく人びとの表情から、夜になったときや季節が変わったとき周囲の環境はどう変化するか、子どもが幼稚園や学校に通い始めたときの通学路はどうか、学校は近いか、遊ぶのに危険なところが近くにないか等を考慮していた。正直、わたしがあまり考えたことのなかった意見が、かなり出た。
いちばんは「子育て」にかんすることだ。申し訳ないことに「子どもの進学」という未来をわたしは土地選定でほとんど顧慮しなかった。なぜか。未来の子育てを無意識のうちに妻に「お任せ」していたからだ。子育てに対する妻の切迫感は次元がちがっていた。イクメンが求められて久しいなか、わたしも意識をもって家庭参画に努めてきたつもりだった。しかし、性別や性格のちがいでは説明できないほどにわたしと妻とでは子育て意識が異なった。
理屈では「いま専業主婦の妻も、やがて復職するかも」と思っていた(そういう話もしていた)けれど、わたしはその考えをも勝手に崩した。端的にわたしは「妻は、これからもずっと家にいる(はず)」と無意識に想定していたのである。
この前提にしたがって家の土地選びを進めれば、ささいな感情のもつれから「妻は家にいるはず」というわたしの観念は、これまた無意識のうちに「家にいるべき」といった「べき論」に変わり、自己正当化の言葉として妻にぶつけられたかもしれない。「復職するかも」を「復職しないでしょ」に勝手にすり替えるわたしの思考傾向からして、考えうることである。
こうして、わたしの女性差別的なものが前景化した。
「女性は家にいるべき」といった固定観念は、依然わたしのなかに根づいている。
現代の若者のあいだでも、女性が育児や家事をして「すごいね」と讃えられることはあまりないのに、男性が同じことをすると讃えられ、「いい旦那さんだね」などと夫人が語りかけられるシーンを目にする。
また、それとは別に先般こんなツイートも見かけた。
「『妻が飲み歩いて育児放棄で父親が育児をしている家庭が増えてる』なんてリプを見かけたのだが……妻が飲みに行くと育児放棄で、夫が飲みに行くのは育児放棄ではないのか?どういう意図なんだろう??別に親のどちらかが育児をしているのならとりあえず『育児放棄』ではないだろう…」(※1)
これらもステレオタイプのあらわれといえる。
このように、わたしたちは「女性差別」につながる前提をもとにコミュニケーションをとっている。差別は「見えにくい」だけであって、「ない」わけではないのだ。
男女の「区別」は、男女それぞれの特性を活かすうえでときに有用だが、男女のあいだを仕切る「上げ下げ可能な遮断器」は、ときに「べき論」によって「裁断機」と化す。本来、地続きであるはずの、けっして「男」「女」で切り分けられない男性と女性の多様な「あいだがら」は(ということを理解している人も意外と多くはない)、裁断機によって寸断されれば「埋めがたき溝」と人に映る。それは「女って(男って)こうだよね」という固定観念を生み、「べき論」につながり、そして差別へと変わっていく。そんな悲劇は枚挙にいとまがない。
男女格差・女性差別・女性の貧困は存在している
2015年、「女性活躍推進法」が施行。安倍政権は「女性が輝く社会へ」と発信しはじめた。しかし「女性が輝く」と喧伝されることに「正直、イラッとした」という女性は多い(※2)。なぜなら、政府の「女性活躍」という表現から、女性がこれまで輝いてこなかったかのような趣旨と、「輝く=家を出て働く」→「女性を労働力としてしか見ていない」といった前提が感じられるからだ。
女性が、活躍してこなかった?
高度成長期をはじめとする旧来の夫婦モデルは、「男は仕事、女は家庭」というものだった。その当時から女性は活躍してきた。かつての企業戦士が「24時間戦えますか」に応えられたのは、ひとえに、家事や育児に女性が無賃でつとめてきたからだ。急成長は専業主婦の活躍に依存していた。それを一顧だにしないようなそぶりで、「女は家庭にいるべき」から突然「女も仕事へ」に社会通念を変えようとするさまは、女性にとって「政府の(というか、男の)勝手」と映るだろう。
時代を経て、女性の社会進出も進んでいる。けれど、それとはちがう「考え方」の次元から生活の隅々にわたり、相変わらず女性はワリを食っている。それに苦しむ人もいる。そして、その「考え方」は一瞬で変わりうる「可能性」はもつものの、容易には変わらない。変わっていない。そのことをわたし自身、先のエピソードで痛感した。
女性は今も、つらい扱いを受けている。社会的に「あたりまえのこと」とされすぎて、そこに確たる問題意識をもつ人は、やはり少ない。
男性に比べ女性は仕事で評価されにくい。もし、男女が仕事で同じ成果をだしたら、重用されるのは男性であることが多い。企業はどこかで「結婚や出産、育児で離職するかも」等の可能性を女性にみていて、女性は重要な仕事からはずされやすく、結果(そのほかにも要因はあるが)、管理職につく女性も少なくなる。仕事に「やりがい」を求める女性は(今時)男性より多いともされるが、男女が公平に評価されないので、結局、キャリア形成意識が高い女性は離職してしまう(※3)。離職のかなりの部分は企業のせいなのだが、企業はそれに気づかず「やはり女は辞める」との観念を強くする。
負のスパイラルである。
また、通年で働く女性の平均年収は、男性の半分ちょっとほどである(※4)。非正規雇用者の大多数も、女性だ。非正規の女性に限れば、年収200万円未満のワーキングプアは74.6%にものぼる(※5)。しかも男性に比べ、女性は転職も復職もかないにくい。
少しまえに、東京医科大学が女子受験生を入試で一律に減点し、女性の合格者数を抑制していたことが明るみになった。ひどい差別だと嘆息した人もいる。だが、おそらく男性諸氏の足元と東京医大は思想的に地続きになっている。他人事ではない。
「産み育て」「働き」「活躍せよ」の女性への求めに内在するアンフェア
女性活躍推進法について作家・雨宮処凛さんは「正社員でスキルがあって、結婚にも子育てにも前向きなスーパーウーマン」(※6)にだけやさしい法律だと主張した。
雨宮さんは、「活躍」の語に女性は疎外感を抱いているという(と、わたしは彼女の主張を理解した)。かなりの割合の女性労働者は、生活維持で精いっぱいという毎日を送っている。そんな彼女らからすれば、「カツヤク」は、空虚だ。むしろ「その『活躍』の基準からはずれているのが、わたし」といった自己嫌悪に気持ちがもっていかれてしまう(そういった生の声を読むと、つらくなる<※7>)。
キャリア形成中の女性のなかにも、職場や家庭でワリを食うなどして気持ちがいっぱいになっている人は多い。そんな同僚・先輩を見て、周囲の女性は、ともすると昇進を望まなくなる。で、男性上司などが「女はビジネスに向かない」などと極論をぼやいたりする。
雨宮さんは、女性活躍推進法が多くの女性にとって無理筋だと教えてくれる。
「女性管理職を2020年までに30%に」といったかたちで、同法は女性の昇進を指標にしている。政府が女性に期待しているのは、「産み育て」かつ「働き」、昇進できるよう「活躍せよ」という三重の役割といえる。これは、つらい。そんなことができるのは、まさに「スーパーウーマン」だけだ。
しかも、上記三重の役割を女性が果たせるよう仕組みを整備するなら、男性が家庭に強くかかわるよう促すことも必要だ。6歳未満の子をもつ家庭で男性がついやす家事・育児の総時間は、女性の2割に満たない。加えて、共働き世帯の男性の8割が家事をしていない(※8)。この現況で女性にだけ「活躍」を迫るのはナンセンスだし、フェアでない。男性にも、家庭へ、家庭へと「活躍」の場を広げるよう徹底するのが公平だ。男性活躍が言われず、女性活躍「だけ」が叫ばれれば、そこに不公平な――そして差別の温床になりうる――思考があると感じる女性がでるのも当然といえる。
と言いつつも、「じゃあ、おまえは家庭参画ができているのか?」と問われれば、わたしも「いいえ」と答えるしかない身である(恥だ)。内省しつつ、わたしから始められる「足がかり」になる話をこれから提示したい。
一点、ここで次回に通じる示唆を。
男女ともに豊かに生きられる社会へ――。それには、家事や育児・介護などの「人の世話」「他人のケア」が、競争と比べても価値があると人びとが感じることが必須である。
「そんな理想は絵に描いた餅だと思われるかもしれない。でも明日それが実現するかもしれない。そのために必要なのは、ただ一つ」
「男性側の意識の変化である」(国際法学者スローター)(※9)
一人ひとりが自分のライフスタイルを選択できる理想へ。【後編】に続く。
[脚注]
(※1)Twitter「りさ@その米から手を離すんだ」さんの2018年5月2日ツイート
https://twitter.com/masanori4568/status/991533987943170049
(※2)女性支援情報サイト「ウートピ」から
https://wotopi.jp/archives/27764
(※3)大沢真知子『女性はなぜ活躍できないのか』東洋経済新報社、2015年
(※4)2018年発表「民間給与実態統計調査」、「国税庁ホームページ」掲載
https://www.nta.go.jp/publication/statistics/kokuzeicho/minkan2017/minkan.htm
(※5)2016年発表「非正規労働者の働き方・意識に関する実態調査」、「連合総研ホームページ」掲載
https://www.rengo-soken.or.jp/work/2016/01/301724.html
(※6)雨宮処凛「女性は輝きなんか求めていない、欲しいのは安心」、「女性セブン」2015年1月22日号掲載
(※7)奥田祥子『「女性活躍」に翻弄される人びと』光文社新書、2018年などを参照のこと
(※8)令和元年版「男女共同参画白書」、「内閣府男女共同参画局ホームページ」掲載
http://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r01/zentai/index.html
(※9)アン=マリー・スローター『仕事と家庭は両立できない?』関美和訳、NTT出版、2017年
<正木 伸城 氏:その他コラム記事>
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